奈良大学通信まよい鹿

奈良大学通信教育部に入学しました

母を訪ねて鬼退治『源氏物語』と『鬼滅の刃』の類推 ~平安文学論③~

今年の桜は勇み足。
花祭りも待たずに葉桜とは。

私は無事、直属上司の教授の
退官イベントをすべて終えた途端、
体調不良となりにけり。
やはり、張り詰めていたのでしょう。


さて、春爛漫のこの時期は、
平安文学論に食指が動きます。
この教科も4月にはテキスト変更。
私は休学中なので
未だ情報を拾えないのですが、
そのうち奈良大学のホームページの
「教育情報の公開」で、シラバス
履修要項が更新されるでしょうから、
待てば海路の日和あり、です。


平安文学といえば、それはまあ、
源氏物語』が最高峰なのでしょうか。
私はこましゃくれた子どもだったので、
小学生で『源氏物語』の原文を
読み散らしていました。
意味や解釈なんて後付けです。
とにかく古典の響きに触れていたのです。
それは正しかった、と断言できます。
物語、とくに古典は
声に出して読み上げれば血肉と化します。

で、光源氏の物語。
私は最近、息子の影響から
鬼滅の刃』にはまっていまして、
これってなんかに似てるよな、
と悶々としていたのですが、
「『鬼滅』は『源氏』に似てる」と
ふいに膝を打った次第です。
どちらも、
Bildungsromanすなわち教養小説だと。


教養小説とは『ブリタニカ国際大百科事典』より
主人公がその時代環境のなかで種々の体験を重ねながら,人間としての調和的自己形成を目指して成長発展していく過程に力点をおいた小説。特にドイツ文学に顕著な傾向で,長編小説の主流をなす。源泉は遠く中世にまでさかのぼり,ウォルフラム・フォン・エシェンバハの叙事詩『パルツィファル』 (1200~10頃) をはじめ,グリンメルスハウゼンの『ジンプリチシムス』 (1669) ,ウィーラントの『アーガトン物語』 (1766~67) などがある。このジャンルの規準になったのは,ゲーテの『ウィルヘルム・マイスター』 (2部,95~1829) で,ケラー『緑のハインリヒ』 (初稿 53~55) ,シュティフター『晩夏』 (57) ,T.マン『魔の山』 (1924) ,ヘッセ『ガラス玉演戯』 (43) などが代表的な作品。


光源氏と炭治郎のどこが似てるねん」
とツッコミ入れられましたら、
「二人とも、意外と個性がきつくない」
と私はボケ返します。
畢竟、教養小説の醍醐味は、
主人公の透明さにあるので。

中心核が空洞であれば、
その周囲には個性豊かな面々が集まり、
自ずと挿話が枝分かれして複雑化する、
つまり物語そのものが強化されるのです。

逆に主人公が独善的に立ち回る小説は、
まったく世界が広がらないため、
誰も成長できない不毛なものとなります。
物語が、やって来ないのです。


あと、二人には明白な類似がある。
光源氏は数多の女性を知ることにより、
炭治郎は数多の鬼を滅ぼすことにより、
自分自身を取り戻しているのです。

数多の女性には失われた母が、
数多の鬼には奪われた尊厳が、
めくるめく物語として
透明な主人公を訪うのです。

光源氏が最終的に得たのは
分身ともいえる紫の上(その喪失も)で、
炭治郎が最終的に得たのは
魂の始祖ともいえる継国縁壱の想いで、
読後感はまったく違えども、
双方こんな見事な教養小説もない、
と私は感服しきった次第です。


母を訪ねて、鬼退治。
春の日に思い描いたAnalogyです。


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3月29日の早朝、
自宅近所のお地蔵様の祠、
これが今年の桜狩りとなりました。


桜花散りぬる風のなごりには
水なき空に波ぞ立ちける
紀貫之古今和歌集