昨日は息子の模擬試験の送迎のため、
会場が設定された奈良市街へ。
息子、初めての模試なので緊張気味。
最初だから気楽にね、と送り出し。
息子を迎えに行くまで、
2時間以上も空き時間あり。
佐保川を東へ沿って、
東大寺まで散歩することに。
中御門跡から東大寺幼稚園を通過、
奈良親子レスパイトハウスの前の
大仏池、鹿の群れ。
大きさも数もピカイチの宿り木。
欧米ではクリスマスに
宿り木のしたに立っている人には
キスしてもいいという風習があります。
お気をつけあそばせ、です。
指図堂と子安神社から大仏殿を眺め。
まだ8時前なので、誰もいません。
大仏殿中門から南大門を眺め。
いやもう、贅沢やわ、独り占め。
中門から大仏殿を眺め。
すみません、今日はお参りはここで。
行き先がありまして。
おはよう。
馬酔木はさすがに食べへんのね。
馬酔木、毒あるもんね。
法華堂もしくは三月堂、
見えてきた。
お水取り真っ最中の二月堂。
ここら一帯、ほんのりと、
お松明の燃えた匂いがします。
左手に良弁杉、右手に大仏殿。
二月堂舞台から東大寺境内を眺める。
興成社、閼伽井屋、
お水取りの裏方の童子さんたちが。
登廊は封鎖されています。
紅梅と白梅が屋根から覗いて。
結界の注連縄。
舞台は聖域となりにけり。
韃靼の燃えさし。
火の香りが至る箇所から漂います。
二月堂の内陣には
練行衆が当然お籠りされています。
それでも、今ここに、
私とご本尊の十一面観音しかいない、
そんな止観の境地。
私は、実は、
韃靼はもう20年は直に観ていません。
人混みが苦手なのが一番の理由で、
夜中のお参りが苦手なのが次の理由。
私は日が暮れてから出歩くのが大嫌い。
だから、日中、こうして
韃靼の燃えさしを訪ね歩くのです。
閼伽井屋の井戸へ、若狭から、
若返り甦り生まれ変わりの
変若水(おちみず)が送られる、
それがお水取りです。
火でもって、命の水を迎える、
それがお水取りなのです。
水の神として命を支える十一面観音。
ペルシア古来の大地母神、
アナーヒターが本地垂迹したような。
私のお水取りへの参加はいつもこう、
ひとり静かに始まり、
ひとり静かに終わるのです。
檜葉。お松明のおこぼれ。
いただいて帰りました。
無病息災と火災除けの護符なので、
玄関と台所にお祀りします。
9時、東大寺南大門をくぐり、
息子の試験が終わるまで、
次はどこで待とうか、考え考え。
通り過ぎてばかりの県庁前の
奈良公園バスターミナルへ。
うーん、県の威信をかけた箱物、
朝9時とはいえ、
ぜんぜん人が集まっていない。
建物2階のスターバックスコーヒー
奈良公園バスターミナル店へ。
コロナ禍の前は、よく諸外国の方が
このテラスを利用されていました。
一刀彫をモチーフにしたのでしょう。
スタバのコップを背負った鹿オブジェ。
10時30分、息子を迎えに行って、
主人が待っている近鉄奈良駅まで。
途中、やすらぎの道沿い、
以前から気になっていたパン屋さん、
panc BAKERYさんへ。
ここはワインバーのAllez!!LeTrefleさんと
テイクアウトメニュでコラボされています。
息子がチョコレートケーキを、
私はスコーンと鯖サンドを。
ご近所らしき奥様方も
入れ替わり立ち替わり買いに来られ、
ああこれは外れなしだと私納得。
ご年配の女性の舌は信用におけます。
パンクベーカリーさんの向かいの
カフェバルドーさんからは、
発狂するほど美味しそうな香りが。
香りの正体、濃厚なナポリタン!
「今度の模擬試験の後、
必ず食べに行こうね」と息子。
「おう、合点承知」と私。
もう怖くなくなったのかな、
五ツ木の模擬試験。
とよのあかり鈴の音さんに
昨日の昼食は決めていたのです。
なんと5㎞も歩いた私、
おなかすいて夢中で食べたので、
唐揚げの写真、撮れず。
先日、三田村邦彦さんの冠番組
『おとな旅あるき旅』で紹介されたら、
お客さんがたくさん来られて、
こんな時期だから嬉しい限りです、
とお店のお姉さん。
三田村さん、救世主ですね。
それから、春鹿さんへ。
春の利き酒のラインナップです。
私は舐める程度ですが、
それでも春鹿さんのお酒は
飲みやすいお酒だと思います。
春の時期のグラス。
実物はもっとオレンジ色っぽく、
とてもかわいい桜色です。
ああ、春ですね。
興福寺の南大門跡、般若の芝。
鹿の溜まり場。
おーい、おーい、
こっち向いて。
向いてくれました。
えらい別嬪さんたちです。
金堂と五重塔。
薪能金春流発祥地の石碑は
馬酔木に埋もれそうです。
くんくん。少し汚れてるね。
お母さん綺麗綺麗してあげる。
南円堂が鹿の親子を
見守っているようです。
先のことは読めませんが、
皆それぞれ春を迎えようと
やれる限りのことに努めている。
息子もちょっとばかり試練を超えて、
ちょっとばかり大きくなったよう。
私も見習わないと。
若い人の存在は、私にとって水のよう。
死と再生を司る、春の変若水です。
止観とは
止 śamathaと観 vipaśyanāとの合成語。止とは精神を集中し、心が寂静となった状態、観とは対象をありのままに観察することを意味し、止を観の準備段階とする。この止と観とは持戒とともに仏教徒の重要な実践とされ、原始仏教経典をはじめ、諸経典に多く説かれている。また止と観とは互いに他を成立せしめて不離の関係にある。
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』