奈良大学通信まよい鹿

奈良大学通信教育部に入学しました

人形の家 惜別の歌 ~東洋史概論③~

先だって亡くなられた
歌手弘田三枝子さんの持ち歌
『人形の家』が私は大好きなのですが、
これがまさか満州と日本の関係性を
隠喩とした歌とは、
作詞を手掛けられたなかにし礼さんから
語られるまで、想像も及びませんでした。


〽私はあなたに命をあずけた


家は、満州もしくは収容所。
人形は、棄民された日本人。
それを知って、
心臓をえぐられるようでした。

棄民など、
こんな惨たらしい言葉が存在する事実にも、
後頭部を殴られるくらいショックでした。


98歳で亡くなった私の祖母は
大正2年すなわち西暦1913年、
日本が中華民国を承認した年生まれ。
翌1914年、第一次世界大戦勃発。
戦争の時代を生きた祖母は、
戦時中の暮らしをほぼ口にせず。
ただ、
「大陸からの引揚者が
嘗めさせられた苦労に比べたら、
自分らなんぞ、数にも入れられへん」
と、こぼすだけでした。

人は、どれだけの過去を歴史として、
否、傷として、
その総身に負っているのか。
どの人も侮ってはいけない、どの人も。
そう肝に銘じるしか
私にはできませんでした。


国史も、世界戦争の章を紐解くのは、
つらかった、です。

私の知人、
戦時中に日本へ移った台湾人のY医師は、
本の学校で常に満点の成績でしたが、
学内での順位は3位や4位、
つまり1位ではなかったのです。
「どうしてですか?」と私が訊ねると、
「瓊花くん、戦争に負けるって、
そういうことや。
儂ら台湾人は後回し。
日本人が、1番なんや」
と、Y医師は鷹揚に仰いました。
私は、思わず、双の目から涙を
溢れかえらせてしまいました。
「なんで君が泣くんや、瓊花くん。
はええ子や、儂の同胞や。
儂は日本人でもあったんやから」
と、Y医師は笑って、
私の手を握ってくださいました。


つらいときには、
いっそつらさに旋毛まで浸かるべき。
私は中央大学学生歌『惜別の歌』を
you tubeで聴きます。


〽遠き別れに 堪えかねて
 この高殿に のぼるかな
 悲しむなかれ わが友よ
 旅の衣を ととのえよ


島崎藤村作の歌詞の意味は、
私などが述べるまでもないでしょう。


行かないでほしい。
ここにいてほしい。

そう心を投じることも許されない、
そんな時代だったのです。


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白い曼殊沙華、
自宅最寄の叢に咲いていて、
本当に嬉しかった。


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病的だなんだと言われようが、
私は花は総じて白い花が好きです。


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餞の花もなかった、
忸怩たる思いで用意できなかった、
あの時代の人たちすべてへ捧げます。