奈良大学通信まよい鹿

奈良大学通信教育部に入学しました

レガリア「王のしるし」 ~史料学概論⑤~

史料学概論のレポートを書いているとき、
ほんとうに楽しかったと、思い出しました。

まあ、
課題から逸脱したポンコツ小論ですが、
それでも今読み返してみたら、我ながら
「なかなか面白いなあ」と感じました。

まーったく参考にならない結論部分だけ、
ここに開示してみます。
これは、東野治之先生著の
史料学概論のテキスト
『日本古代史料学』を通読して得られた、
私なりの「へっぽこ史観」です。


日本古代史料学


 本論にて様々な史料を様々な方法論でもって検討した結果、主要人物として「①崇拝され神格化された聖徳太子」「②太子信仰者である橘三千代」「③橘三千代の娘であり、藤原氏の未来を嘱望された安宿媛のちの光明皇后」「④天智と天武の孫であり、元明の娘を妻とする長屋王」「⑤皇族以外の母から生まれ、皇族以外の妻しか持たない聖武天皇」「⑥天智と天武と持統の孫であり、文武の皇后に値する立場におかれた元正天皇」「⑦天智の娘であり、文武と元正の母である元明天皇」「⑧すべてに陰で関わっている藤原不比等」が挙げられる。
 なぜこれほどまでに太子の神格化が図られたのか。それを遂行したのは橘三千代であり光明皇后であり、藤原氏の意向によってであることは明白である。藤原氏がそこまで太子を求めた理由に、長屋王の存在を除外できないであろう。
 偉大な太子の信仰を簡潔に述べることは難しいが、奈良時代藤原氏がどういった世情を生きていたかを史料の上で検討した結果、先ず屋台骨である藤原不比等を亡くし、次に長屋王の変よりわずか数年の間に不比等の息子四人を相次いで亡くした、言わば女だけが生き残ったような状況であったことが浮き彫りにされる。つまり、女性を救う思想が求められたといえよう。法華経は女性になじみ良い経典であり、一族郎党死に追いやられた長屋王の悲劇と太子の子孫たちの悲劇とが重なり合うのも、橘三千代光明皇后には看過できなかったと推察される。

 奈良時代における藤原氏の栄華は、天武天皇の皇統に巻き付いて得られたものではあるが、それは天智天皇の娘である元明天皇には、容易に肯首できなかったのではないか。元明には息子文武の忘れ形見である孫聖武のほかに、長屋王に嫁がせた娘吉備内親王より輩出した孫数人も存在し、それらを「皇孫」と特別に遇した。不比等亡き後、元正は長屋王を右大臣に迎え、朝政の要とした。聖武の生母藤原宮子の呼称について公に異論を唱えられるのは、その出自の整いあがった長屋王以外になかったのである。元明長屋王への傾倒ぶりも、聖武とその背後の藤原四兄弟には薄氷を踏む思いを抱かせたにちがいない。
 元明が崩じ(七二一)、元正が聖武に位を譲ったと同年辛巳事件が起こり(七二四)、聖武安宿媛基王が生まれ(七二七)、基王が夭折したと同年藤原氏以外の室から聖武に安積親王が誕生した(七二八)。安宿媛立后を希求する藤原氏の野望が潰えかけたその時、長屋王の変は起きた(七二九)。元明の肩入れが、長屋王に興隆と滅亡を与えたともいえよう。しかし長屋王がいかに特別な存在であったかは、その邸宅跡より出土した木簡群が多弁に語ってくれている。

 元明が娘氷高皇女を皇太子待遇と処したのは、病弱な息子軽皇子の将来性を見限っていたからともとれるが、忍び寄る藤原氏の野望に対する自衛策であったとも推察できる。元明が即位したのも、元正が即位したのも、総じて文武の息子の聖武を補強するものである。しかしとらえようによれば、その元明元正の母娘二代にわたる権威の箔付けは、藤原氏に沿うようで皇統そのものを強化したものともみられ、稀代の政治家である不比等を相手に粛々としたパワーゲームを展開した元明の甚大さが透けて見えてくる。
 赤漆文欟木厨子正倉院蔵、国家珍宝帳記載の献納宝物で、天武から持統・文武・元正・聖武孝謙の歴代天皇に伝領されたという、極めて由緒正しい品)が元明のもとに渡らなかった、その「欠員」の圧倒的な存在感は、元明が即位の名分に「天武天皇の息子の妻」ではなく「天智天皇の娘」を採った『不改常典』に忠実である。
 また、元正における赤漆文欟木厨子は、皇統の継承が男系にあった事実を裏付ける史料ととれる。女性継承が可能であるなら、元正は「天武天皇の孫」ではなく「元明天皇の娘」を採るべきであり、それが筋合いならば赤漆文欟木厨子の所持者には元正は当然、文武も該当しなかったはずである。なお、皇統譜に記されたこれまでの女帝四人(推古・斉明・持統・元明)はすべて、天皇もしくは皇太子の妻であった。元正が端緒を切った、たったひとりで天皇の位に立った女とは、更なる論議を萌芽する存在である。

 長屋王が一族とともに滅亡した後の、聖武天皇光明皇后の仏教傾倒は、東大寺を始めとした平城京仏教文化として現在にまで敷衍されている。仏の教えに救いを求めれば、これまでの自らの行いを反芻せざるを得なくなる。大仏の巨大さは、華やかな天平時代において最も高貴な統治者夫妻の、その茫漠たる空虚に比例しまいか。
 もとより、前述の橘三千代しかり、聖徳太子への信仰の度合いが深まれば深まるほど、それがなにゆえに発したかの理由と結びつく。藤原氏の野望から、奈良時代きっての重要人物である長屋王が一族郎党死滅させられた。その果てに待ち受けていたのは皮肉にも、『大慈恩寺三蔵法師伝』にある仏の教え「因果応報」に従うような、聖武と光明による最も尊い血統の、断絶である。
 母と遇された元正を追うように聖武も崩じ、ほかに打つ手もない気配のなか、聖武と光明の娘阿倍内親王が即位したが、彼女もまた元正と同じく皇位を継ぐ女性として、独身を定められていた。つまり、阿倍内親王すなわち孝謙天皇の即位とともに天武嫡系は終焉が決定づけられたのである。ほどなく、皇太后となった光明は、赤漆文欟木厨子を大仏に献じる形で、手離した。これほど歴然としたレガリアもないと思われる。

 孝謙天皇のちの称徳天皇藤原仲麻呂のちの恵美押勝天平時代の幕を引いた内乱は、不比等の孫にあたるこの二人が起こしたものである。仲麻呂東大寺に忌まれたという史実は、仲麻呂が仏教一筋に生きざるを得なかった晩年の聖武天皇と異なり、相手が大勢力の仏門であっても懐柔されない強靭さを誇る人物であったからとも推察できる。それさえ凌ぎ、ねじふせた称徳天皇も、天武嫡系掉尾を飾るにふさわしい古代王権的統治者であったとも推察できる。

 以上、それらが真実であるか、流行り歌にもあった「言葉にすれば嘘に染まる」の文字としての限界を覚えるが、数多の史料検討ならびに考古学的方法によってこつこつと解読する楽しみも、また覚えることができた。
 真のフィクサーは沈黙に徹するものであるが、史料という様々な証拠がパズルのように組み合わされると、沈黙の均衡が破られる。論者も、テキストを読み込んでいくうちに、一連の歴史学を見通せた。
 史料学の密度の濃さと、面白さが、このレポートによって論者には諒とされた。